石山寺の建立の歴史は、ご本尊の如意輪観音と、石山寺が立つ硅灰石(けいかいせき)と深いかかわりがあるのをご存知ですか。この寺を訪ねる時は是非この歴史的背景を知っておくことをお勧めします。
この寺は、奈良時代に建立されてから、幾度も戦火に焼かれ、再建を繰り返してきました。その中にあって、源頼朝の寄進によって建久5年(1194年)に建立されました多宝塔は、現存する多宝塔の中では日本最古と言われています。
今回私たちは、「光る君へ」に触発されてこの寺を訪ねましたが、石山寺ならではの歴史に彩られた景観に触れ、思いを新たにする機会となりました。
奈良時代に始まり、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、そして戦国時代を経て江戸時代に至るまで、この寺の歴史はまさに日本の戦乱の歴史を物語るものでもありました。
様々な戦乱による影響を受けつつも、その都度再建されてきました。創建当時の建物がそのまま残っているわけではありませんが、非常に古い時代に再建されたものが現存し、国宝としてその歴史を伝えています。
今に伝わる由緒ある建造物の数々はそうした目で見ると少し違った風景に見えてきます。この寺の創建のいきさつを知れば、現在に連綿と続く歴史のもたらす空気感を実感できるのではないでしょうか。
石山寺創建の歴史:石山寺が立つ硅灰石とご本尊の如意輪観音の秘話
最初に、冒頭に触れた石山寺の創建にまつわる逸話をご紹介します。
実は当時、東大寺の大仏建立に際し黄金が不足していたため、聖武天皇の勅願を受けた良弁僧正がこの地で祈願を行いました。祈願の結果、陸奥国(現在の宮城県)で黄金が発見され大仏建立の目処が立ちました。 良弁は祈願に用いた如意輪観音像をこの地から移そうとしましたが、像が大きな岩(硅灰石)から動かなかったため、この場所に草庵を結んで観音像を祀ったのが石山寺の始まりと伝えられています。
石山寺の創建は奈良時代の天平勝宝年間(749~757年頃)とされています。
天平宝字5年(761年)から翌6年(762年)にかけて、東大寺の造営を担う「造東大寺司」の別所として、「造石山院所」が設置され、国家的な事業として本格的な伽藍(がらん)整備が進められました。これにより、石山寺は単なる草庵から、壮大な規模を持つ寺院へと発展し、 創建当初の本堂は、この時期に建てられたものと考えられています。

石山寺の入り口から本堂まで(国宝)の様子:硅灰石も見どころ
大河ドラマ、「光る君へ」で人気スポットの「石山寺」ですが、平日にも関わらず、9時過ぎの入園でも駐車場には10台前後の車が止まっていました。

東大門から参道へ
駐車場を左手に進むと爽やかな青空の元、東大門が堂々と迎えてくれます。

この東大門は源頼朝の寄進により建立され、その後、豊臣秀吉の側室である淀殿の寄進により、新築に近い形での大修繕され今日に当時の姿を伝え残しているのです。そして、東大門の仁王像は鎌倉時代の仏師、運慶とその息子の湛慶によって造立されたと伝えられています。

参道の周辺にも歴史情緒が漂う気配を感じます。

この先本堂に向かうには、入場料が必要です。この季節は特別展があり、セット料金のチケットもありましたが、私たちは時間の都合で入場券だけ購入しました。

硅灰石(けいかいせき)の上に立つ本堂へ
参道を右に階段を上り、国宝で滋賀県最古の木造建築物の本堂に向かいます。
石山寺はその名の通り石の山の上に建つお寺で、本堂や多宝塔はこの硅灰石の上に建てられているそうです。

石山寺は、自然の岩山そのものを利用して寺が建立されており、支える硅灰石は単なる小さな岩塊ではなく、境内全体に広がる巨大な岩盤であり、国の天然記念物にも指定されています。

現在の石山寺の国宝の本堂の内陣(正堂)は、奈良時代の天平宝字年間(761~762年頃)に造営されましたが、承暦2年(1078年)の火災の後に永長元年(1096年)に再建されたものです。これは滋賀県に現存する木造建築物の中で最も古いとされています。
ご本尊の「如意輪観音」は日本唯一の勅封(天皇の勅命によって封印され、通常は開扉されない)の秘仏とのことで通常は非公開です。御開扉は非常に稀で、33年に一度と、天皇の御即位の翌年に特別に行われる習わしとなっています。通常はその代わりの「お前立様」をお参りします。
現在の本尊如意輪観音像は、永長元年(1096年)に造立された木造の優品で、重要文化財に指定されています。如意輪観音は、「如意宝珠(願いを叶える宝珠)」と「法輪(仏法の象徴)」を持つことから「思いのままに願いを叶える」ご利益があるとされ、智慧や福徳授与の観音として信仰されています。
鐘楼と多宝塔
この鐘楼も多宝塔と同じく、鎌倉時代の遺構とされています。

石山寺の多宝塔は、源頼朝の寄進によって建久5年(1194年)に建立されました。これは鎌倉時代初期の建築で、当時の和様建築の代表的なものであり、日本における現存最古の多宝塔として国宝に指定されています。
この多宝塔は、その後も比較的戦火の被害を免れ、建立当時の姿を伝えているとされています。

私は多くの多宝塔の建築的な外観の美しさが好きで、寺社を訪れると一番最初の興味の対象となりますが、現存最古の多宝塔にはしばし見とれてしまいました。

平安時代の石山寺:文化的な繁栄と文学との結びつき
承暦2年(1078年)に落雷によって本堂が焼失するという出来事がありましたが、平安時代は石山寺にとって文化的に非常に栄え、特に文学との結びつきが深まった時代であり、比較的平和な時期と言われています。
平安時代に入ると、京の都に近い観音霊場として、貴族や女流文学者たちの間で「石山詣」と呼ばれる参拝が盛んになります。
平安時代の石山寺を語る上で、紫式部と『源氏物語』の結びつきは欠かせません。
紫式部はお仕えしていた中宮・彰子の要望を受け、新しい物語を作るために石山寺に七日間参籠したそうです(諸説あり)。その時、琵琶湖の湖面に映った十五夜の月を眺めて、須磨の「今宵は十五夜なりけり」の一節を書き出したことが、「源氏物語」の始まりだったと言われています。現在も本堂には「源氏の間」が残され、この伝説を伝えています。
清少納言の『枕草子』や藤原道綱母の『蜻蛉日記』、菅原孝標女の『更級日記』など、当時の女流文学者の作品にも石山寺への参詣の様子が描かれており、石山寺が平安文学にとって重要な舞台であったことが伺えます。

藤原道長をはじめ、多くの貴族が石山寺詣を行い、歌会や文化活動の場としても栄えました。
戦火による影響と度重なる再建
石山寺は、京都に近い要衝の地であったことや戦略拠点として、歴史の表舞台でたびたび戦乱に巻き込まれ、幾度となく焼失と再建を繰り返してきました。
- 鎌倉時代初期:承久の乱(1221年)で戦乱の被害を受け、本堂の一部などが焼失しました
・しかし、この時期の再建は比較的早く行われたようです - 南北朝時代(14世紀):この地はたびたび戦場として巻き込まれました
・足利尊氏と新田義貞の戦いなど、この時期の戦火で伽藍の多くが甚大な被害を受けました - 室町時代中期:応仁の乱(1467~1477年)
・石山寺はこの大乱によって大きな被害を受け、多くの建物が焼失し、境内は荒廃の一途を辿ります
・この時期の被害は特に大きく、寺勢は著しく衰退したとされています - 戦国時代:織田信長と足利義昭の戦い(元亀・天正年間 1570年代)
・織田信長が天下統一を進める中で、足利義昭(室町幕府最後の将軍)が信長に対抗するために石山寺に立てこもるなど、再び戦乱に巻き込まれます
・ 元亀年間(1570-1573年)には、信長の焼き討ちによって本堂を含む多くの伽藍が焼失しました
・この戦乱により、石山寺は再び壊滅的な被害を受け、一時は再建が危ぶまれるほどの状態に陥りました
戦国時代の壊滅的な被害を経たのち、石山寺は有力者の庇護のもと見事に復興を遂げていくのです。
近世以降の再建と繁栄
豊臣秀吉と淀殿による大修復(16世紀末~17世紀初頭)
石山寺の再建に大きく貢献したのは、天下人となった豊臣秀吉とその側室である淀殿(茶々)です。
秀吉が天下を掌握した後、淀殿は亡き父浅井長政や秀吉の菩提を弔うため、石山寺の復興に尽力しました。
特に、慶長6年(1601年)には淀殿の発願により本堂の大改修が行われました。現在の国宝である本堂の「相の間」や「外陣」は、この時の淀殿の寄進によるものです。この大規模な再建によって、石山寺はかつての壮麗さを取り戻し、再び観音信仰の中心地として多くの参拝者を集めるようになりました。
徳川幕府の庇護と近世の繁栄
江戸時代に入ると、徳川幕府も石山寺を保護し、寺領の安堵や修復などを継続的に行いました。これにより、石山寺は安定した寺勢を保ち、文化活動の拠点としても栄え、月見の名所としても一層名声を高めました。
このように、石山寺は建立以来、幾度となく戦火に見舞われながらも、その都度、人々の信仰と有力者の支援によって再建を繰り返し、現代に至るまでその歴史と文化を伝え続けています。
『近江八景』にみる「石山秋月」
「石山秋月」が近江八景の一つとして確立し、広く認識されるようになったのは、室町時代後期にその原型が成立し、江戸時代に歌川広重の浮世絵などで大衆化してからと言われています。
- 石山秋月: 琵琶湖に面した月見亭(望月亭)から琵琶湖に映る月が非常に美しとされ愛でられました
- 瀬田夕照: 瀬田川に沈む夕日が水面に映る美しい光景
- 三井晩鐘: 三井寺(園城寺)の鐘の音が夕暮れの湖面に響き渡る様子
- 唐崎夜雨: 唐崎神社周辺の夜雨の風景
- 比良暮雪: 比叡山に雪が降り積もる冬の夕景
- 堅田落雁: 堅田の落雁(お菓子)作りと、琵琶湖の風景
- 粟津夕照: 粟津の夕焼け
- 夏目澤風: 夏目澤のさわやかな風
石山秋月について
江戸時代に入り、歌川広重が「東海道五十三次」の中で「石山秋月」を題材にしたことで広く知られるようになりました。石山寺で「石山秋月」と言えば、本堂から北西に多宝塔を抜けた先にある、「月見亭」がメイン舞台です。
古人は、ここからの月見に様々な思いを紡いでいたことでしょう。

残念ながら、「月見亭」は2017年に茅葺屋根から檜素材の板葺きへ改修されたそうで、写真の姿になっていました。

地図で見ると「月見亭」から北を臨めば、瀬田川から琵琶湖に至る景観が広がることが伺えます。

まとめ
石山寺を訪ねるにあたっては、この寺の創建と再建の歴史を知っておくことはとても意味があることだと思います。
見えてくる景色が変わりますし、ここを訪ねて過ごす時間の価値が違うものになるのではないかと感じました。
ただ景色を眺めるのではなく、奈良時代に建立されてから今日に至るまでの幾多の歴史を経て、今この姿があることの意味を問うてみるのは貴重なことだと感じました。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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