こんにちは。
皆さんは「竜田古道」というのは聞いたことがありますか。
私は不勉強で、今回訪れることになり始めて聞いた名前でした。
この道は飛鳥時代に端を発するものだそうです。
今回は、万葉集で詠まれた歌に見る往時の景色と重ねながら、今の竜田古道を歩いてみたいと思います。
最高気温36℃の予報の中、平均年齢古希オーバーのシニア5名でやや無謀な強行となりました。
お天気に恵まれ過ぎた梅雨明けの酷暑の中で、見えてきた「いにしえの景色」は有ったのでしょうか。
竜田古道について
竜田古道(たつたこどう)は、『日本書紀』の記述などから、推古天皇の飛鳥時代に、聖徳太子が設置した日本最初の官道と伝えられています。
この道は、大和の都の「平城京」と河内(大阪府東部)を結ぶ重要な道として設置され、飛鳥時代には、難波津・四天王寺と斑鳩里・法隆寺を結ぶ街道として整備されたました。
天皇の行幸や遣唐使、遣新羅使が大和に入る際の玄関口としても重要な役割を果たしたそうです。
竜田古道は『万葉集』にも多くの歌が詠まれていることからも、往時の要衝であったことが伺えます。
又、壬申の乱(672年)では戦場となった場所でもあるそうです。
尚、飛鳥時代の天皇の行幸などは、大和川沿いの道(下図の赤破線)が主に使用されていたようですが、今回の散策路である高井田から里山公園を経て亀の瀬側に向かう山側のルート(下図の青破線)は、主に奈良時代に向けて利用されていたと考えられているそうです。
Google Mapに竜田古道のおよその推定ルートをプロットしてみました(薄ピンク破線)。
竜田古道の全容は不祥らしく、いろいろ調べてみましたがまとまった情報が無く、確認できた情報を元に推定してます。
あくまでも、エリアのイメージ程度にご参照ください。又間違っていたらご容赦ください。
現在の古道跡に、どの様な名残りが垣間見られるのか楽しみです。
万葉集にみる往時の竜田古道
竜田古道は、竜田川と共に万葉の時代から人々に愛され多くの歌人の心を捉えてきました。
交通の要衝、紅葉狩り、竜田姫というキーワードに焦点を当て、具体的な歌の例をいくつかご紹介しましょう。
交通の要衝としての竜田古道を詠む歌
「島山をめぐりて流るる河曲の 丘辺の道ゆ 昨日こそ吾が越え来しか」 (大伴家持)
島山を巡り流れる川のほとりにある丘陵の道を昨日私は越えてきた、という歌です。
竜田古道は、人々が旅をする上で重要なルートであり、旅の途中で出会う風景は、歌人たちの心に深く刻まれていました。
竜田姫を詠む歌
「龍田川 清き瀬に千鳥妻呼び 山際に霞み立つらん 神奈備の里」 (作者不詳)
この歌は、竜田川の清らかな瀬で千鳥が仲間を呼び、山際には霞がかかり、神聖な場所であることを歌っています。竜田姫が祀られている神聖な場所としての竜田川が描かれています。
竜田姫とは、龍田比売命のことで日本の秋を司る秋の女神として、龍田大社に祀られています・
紅葉の美しさ、神々への祈り、恋心を詠む歌
万葉の歌人たちは、四季折々の自然の美しさを愛で、その変化を歌の中に表現しました。
竜田川は、特に紅葉の名所として知られており、多くの歌に詠まれています。
「海人の釣舟漕ぎ出でぬ時ゆけば 竜田の山紅葉ずらしき」 (作者不詳)
海人が漁に出かける時、竜田の山は紅葉し始めていたという歌です。
紅葉狩りの様子が間接的に描かれており、当時の風俗を垣間見ることができます。
日常の風景の中に、紅葉の季節が訪れている様子が描かれており、自然との共生が感じられます。
竜田川は、竜田姫だけでなく、他の神々も祀られていました。
「龍田川 清き瀬に千鳥妻呼び 山際に霞み立つらん 神奈備の里」 (作者不詳)
竜田川の清らかな瀬で千鳥が仲間を呼んでいる。
山際には霞がかかり、神聖な場所であることが感じられるという歌です。
竜田川が神聖な場所として崇められていたことがわかります。
「妹が紐解くと結びて 竜田山 今こそもみち はじめてありけれ」 (作者不詳)
恋人の手が解いた紐を再び結ぶように、竜田山の紅葉も今まさに散り始めようとしているという歌です。
恋の切なさや、時の流れの速さを、紅葉の美しさに重ねて詠んでいます。
万葉集に現れる竜田川や竜田古道は、単なる地理的な場所ではなく、人々の暮らしや信仰、そして心の風景と深く結びついていました。
古代の人々は、自然の一部として生きており、自然の変化を敏感に感じ取っていました。又、竜田川は、人々の暮らしに深く関わっており、神聖な場所として崇められていました。
これらの歌を読むことで、古代の人々が自然をどのように捉え、どのように生活していたのか、そしてどのような感情を抱いていたのかを垣間見ることができます。
竜田古道を訪れる際には、万葉の歌を心に留めながら、古代の人々の心を想像したいものです。
当日の散策の様子
近畿日本鉄道さんのマップに沿って歩きます。このマップは分岐の目印が分かり易く、今回は一度も道を迷うことは有りませんでした。
散策当日は朝から30℃を超える気温の中を歩き始めますが、早々にコース短縮と打ち上げ前倒しの話で盛り上がります。予定コース12kmでしたが、ほぼ歩き始めの時点でゴールを三郷駅への変更が決まり10kmコースとなりました。
そして、残念ながら今回のコースには、ほぼ万葉集に詠まれた歌に出てくる地名の場所は通っていませんでした。
更に季節は盛夏、紅葉の気配すらありません。
万葉の旅としては、いろいろ設定が間違っていたのでした。
まあ、そもそも幹事さんから万葉の旅とは一言も言われてないので、そりゃそうですね。
流石に我々以外の皆さんは賢明で、この暑さの中を出歩く人はほぼ見かけません。
結局この日は、竜田古道を散策する人には最後まで出会いませんでした。
灼熱の太陽の元、修行の様な散策が続きます。散策路の周囲には、出発から中盤あたりまでブドウ畑が広がります。
飛鳥・奈良時代のこの辺りは、今のようにブドウ畑が広がる斜面とは異なり、沿道には多くの古代寺院が建ち並び、仏教に帰依する人々が集まる場所だったと言われていますが、今はその名残りは感じませんでした。
堅上中学校を過ぎて右に曲がると、金山媛神社の入り口に神輿が鎮座しています。20日21日と夏祭りのようです。
金山媛神社(かなやまひめじんじゃ)は、古代から製鉄業が盛んだったこの地域に、金属の守護神として信仰されてきたそうです。ご祭神は金山毘売神(かなやまひめのかみ)で、火の神カグツチの嘔吐物から生まれた神とされています。
この神社は創建時期が不詳のようですが、平安時代には記録があります。飛鳥時代にも何らかの形で信仰されていた可能性もあるようです。
この先はひたすら登りが続き、熱中症の一歩手前ぐらいの中、必死に「里山公園」での昼食(というかビール)を楽しみに歩き続けます。
「里山公園」では、さわやかな日差しの中、幼稚園児たちが流しそうめんを楽しんでいました。その横で園児たちの歓声に癒されながら、おじさんたちはビールでお疲れ様の乾杯です。
この先は、反省会という名の打ち上げだけを楽しみに、一路「三郷駅」を目指します。
この時点で、いにしえの足跡を辿る意識は蒸発してしまっていました。
この先はひたすらの下りですが、それでもこの暑さは老体には優しくはありませんでした。何とか健康な?状態で駅にたどり着くことが出来てホッと一息です。
感想とまとめ
ある程度のアウトドアの猛者達ではありましたが、今回の酷暑での山行はやや無謀なチャレンジだったかも、と反省の山行でした。
そして、万葉の足跡を感じるという点では、時期もコースも大間違いでした。
(幹事さんの企画には万葉の旅的な言葉は、一言もありませんので、私の勝手な受け止めの問題です)
教訓:真夏の灼熱の散策はやめましょう(特に高齢者)!
暑さに負けて、歴史的な接点という意味では物足りない山行でしたが、事後の調査でいろいろ勉強させてもらいました。
今回の散策路は、歴史的な名残りという点では、やや感じにくい印象でした。
歴史ロマンという意味では、時代背景を整理して、時代考証的な事前勉強が必要だと感じました。
機会があれば、次回は秋の紅葉の季節に万葉集に思いを馳せる山行をしてみたいと思います。
皆さまも、一度竜田古道を歩いて往時を偲んでみてはみては如何でしょうか。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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