萌え立つような新緑が目に眩しい季節に、気の合うシニアの山仲間で大和三山を散策してきました。
橿原神宮を何気なく歩いていると、ふと目に飛び込んできた『起元二千六百八十五年』の文字。『え?何のこと?』歴史音痴の私の頭には、大きなクエスチョンマークが浮かびました。
この数字は、日本の初代天皇である神武天皇が即位した年を起点としているのだそうです。神武天皇元年正月一日(旧暦)、西暦では紀元前六六〇年二月十一日。そう、日本の建国記念日。もちろん、皆さんはご存知ですね(笑)。
でも、まだ疑問は続きます。日本の始まりを告げる初代天皇を祀る橿原神宮が、なぜか伊勢神宮ほどメジャーではないような気がします。天照大御神(あまてらすおおみかみ)との関係は?なぜ伊勢神宮の方が『格上』と言われるのか?
この記事では、私の素朴な疑問を紐解きながら、神武天皇と天照大御神、二つの神宮の関係性を探ってみたいと思います。もちろん、新緑の大和三山の美しい散策記録も添えて。
橿原神宮は、なぜ伊勢神宮ほどメジャーではないのか?
橿原神宮は、日本の初代天皇である神武天皇を祀る神社であり、訪れてみると荘厳な建築に目を見張りますが、意外と認知度や観光地としての人気は低い印象です。
訪れてみると、賑やかさは控えめで訪れる人も少ない印象です。今回の訪問を機に、そのワケに踏み込んでみました。

天照大御神と神武天皇、伊勢神宮と橿原神宮の歴史的な関連性
実は神武天皇は日本の初代天皇では有りますが、天照大御神から数えて五代目の子孫であるとされています。一方で天照大御神は皇室の御祖先であり、日本国民の総氏神とも仰がれる存在です。
また、橿原神宮が創建されたのは明治23年(1890年)とされているのに対して、伊勢神宮の創建時期については、一般的には約2000年前の垂仁天皇の時代に、内宮(皇大神宮)を創建したと伝えられています。
創建以来、伊勢神宮は皇室からの篤い崇敬を受け、国家の守護神として重要な役割を果たしてきたとされています。
以上の経緯から(?:少しハショリすぎですが)、神社の格式としては、伊勢神宮が最上位とされているのだそうです。

橿原神宮の人気が今一つな、その他の理由
こうした歴史的な背景以外にも、橿原神宮の人気が不利な要因がありました。
- 歴史的な意義として、伊勢神宮の方が格上である
- 周辺の観光地の知名度や集客力が他の人気地域に比べて低い
- 京都や奈良市の中心部にある著名な神社と比較すると、交通の便がやや劣る
- 近年の建築物であり、荘厳な意匠ながら比較的質素な装飾である(好みによる)
しかし、人で溢れていることが必ずしも良いことでもなく、落ち着いた空間に身を置くことが尊いこともあります。
橿原神宮は、私にとっては居心地が良く、心洗われるような落ち着いた空間に感じられました。
天照大御神と神武天皇の歴史的な意義
天照大御神と神武天皇の歴史的な正当性に関して
天照大御神と神武天皇の歴史的な正当性に関する考察は、日本の古代史と神話において非常に重要なテーマであり、長年にわたり議論が続けられているようです。
実は、歴史的な正当性に関しては、両者ともに神話的な存在としての可能性が指摘されています。
天照大御神の歴史的正当性
天照大御神は、『古事記』や『日本書紀』といった日本の神話において、太陽を神格化した最高神として描かれています。皇室の祖神とされ、日本の国土や文化の根源とされています。
天照大御神が実際に歴史上に存在した人物であるという直接的な証拠は見つかっておらず、神話的な存在として理解するのが一般的です。
ただし、一部の研究者は、古代の巫女や有力な女性首長などが天照大御神の原型になったという説を提唱しており、例えば、卑弥呼と天照大御神を結びつける説などもあるそうます。
皇室は、天照大御神の子孫であると伝えられており、この神話的な系譜が皇室の権威と正当性の重要な根拠と言われています。
神武天皇の歴史的正当性
『古事記』や『日本書紀』は、神武天皇を日本の初代天皇として記述し、その東征や即位の物語を伝えています。神武天皇は日本の建国神話の中核をなす人物です。
神武天皇の実在性についても学術的な議論が続いており、考古学的な証拠や同時代史料の欠如などから、神武天皇も神話的な存在とする説が有力だそうです。
特に、2代から9代の天皇(欠史八代)の事績がほとんどないことなどから、初期の天皇は系譜を整えるために作られたとも言われています。

つまり、天照大御神と神武天皇の物語は、日本の古代の人々の世界観や歴史観を反映した神話として理解するのが一般的な理解ということのようですね。
天照大御神は日本国民の総氏神とされ、神武天皇は日本の建国の祖として広く認識され、国民統合の精神的な象徴としての役割も果たしてきたことが重要なのだと感じます。
久しぶりに橿原神宮を訪ねて、ふと思いついて調べてみたことはこのあたりにして、この先は今回の大和三山の山行の記録についても少しだけお付き合いいただけると嬉しいです。
橿原神宮の周辺観光としての大和三山を歩く
大和三山は、橿原市を中心とした奈良盆地南部に位置する以下の3つの独立した小丘陵の総称で、「畝傍山」「香具山」「耳成山」からなります。標高的には、山というより丘に近い印象です。

- 畝傍山(うねびやま): 標高199.2mで、大和三山の中で最も高い山です
神武天皇が即位したとされる橿原宮(現在の橿原神宮)の南に位置し、神武天皇陵もあります - 香具山(かぐやま): 標高152.4m。「天香久山(あまのかぐやま)」とも呼ばれます
『万葉集』にも詠まれた神聖な山とされています - 耳成山(みみなしやま): 標高139.7m。その名の通り、左右対称の美しい円錐形の山容をしています
大和三山は、神武天皇が東征を行い、大和の地で初代天皇として即位したという伝承とも深く結びついていおり、また神武天皇ゆかりの地として、古代から神聖視され、神話の舞台として日本の建国神話において重要な役割を果たしているようです(知らんけど)。
つまり、大和三山は、神武天皇の伝承、古代の都、そして日本の文化という多角的な側面から、橿原神宮とも非常に重要な関わりを持ち、古代から人々に親しまれ、多くの神話や伝説、歌に彩られているようです(超付け焼刃のまとめですみません)。
実際歩いてみると、そうした神話や歴史的な記録に、想定外にたくさん接することができ、貧弱な私の知識では少し持て余し気味な印象でしたが、充実した山行となりました。
私たちの当日の足跡
今回も、近鉄「てくてくマップ」のお世話になり、還暦越えの5人で三山を巡りました。

橿原神宮から畝傍山へ
低山を巡る今回のコースは全行程で14kmほどです。所々にちょっとした急登をまじえて、比較的ダラダラと歩くので、少しずつ疲れますが、意外と見どころ満載で、シニアでも楽しく歩けるルートです。
歴史的な見どころが多すぎて、私には当日の散策中には整理し切れない印象で、予習が必要だったかもしれません。

幸い薄曇りで過ごしやすい中、畝傍山の山頂へと向かいます。やはり新録は格別で、山歩きにおいては、紅葉の季節を押えて、私はこの季節の山行が一番好きです。

畝火山口神社、神武天皇陵、本薬師寺を経て、香具山へ
紅葉の季節にも映えそうな畝火山口神社を経て、神武天皇陵を目指します。

その道中の民家の屋根には、ここかしこに七福神が飾られていて、目を楽しませてくれ、少し幸せな気分になります。

橿原市を含む奈良県には「大和七福神八宝霊場めぐり」という巡礼コースがあり、橿原神宮の近くにも七福神を祀る寺社が存在するため、地域住民がその信仰心から自宅の屋根に七福神を祀るようになったのかもしれません(詳しい史実の記録は見つけられませんでした)。
少し進むと、雄大で閑静な神武天皇陵に向けた参道が開けます。この道は1877年に明治天皇も参拝されています。深淵で荘厳な気配が感じられます(気のせいかも)。

近鉄柏原線を渡りしばらく歩いて本薬師寺に到着すると、歴史情緒に満ちた立派な石束がお出迎えです。こういう景色も大好きです。

この先は、少しだけ寄り道しては天岩戸神社に立ち寄ります。少し無理やり感がなくもない、こじんまりした佇まいに感じます。

そもそも天岩戸は伝説上の存在なので、「言ったもの勝ち」的な要素もあり、日本の各所に伝説の神社が伝わります。
- 宮崎県高千穂町:高千穂には、天岩戸、天安河原(八百万の神々が集まったとされる場所)、天照大御神が最初に出た際に住んだとされる東本宮など、神話に登場する地名が数多く残っており、 古くからこの地には天岩戸神話が語り継がれており、天岩戸神社は地元の人々の信仰も篤いです
- 三重県伊勢市: 伊勢神宮周辺にも天岩戸と呼ばれる場所があります
- 奈良県橿原市: 橿原神宮の近くに今回訪れた天岩戸神社があります
- 長野県戸隠: 天照大御神が天岩戸から二度と隠れないように、天手力男神が投げ飛ばした岩戸が戸隠山になったという伝説があります
その後、伊弉諾神宮(いざなぎのみこと)とその妻である伊邪那美神(いざなみのみこと)が祀られる祠もお参りしつつ、天香山神社をお参りします。
天香山神社は、主な御祭神は櫛真智命(くしまちのみこと)で、『日本書紀』の神武天皇即位前紀にも、神武天皇が八十梟帥(やそたける)を討つ際、天地神祇を祀ったという記述がある由緒ある神社のようです。

そう言われると、確かに歴史に裏打ちされた風格を感じてきます。

藤原宮跡でお昼休憩の後、JR桜井線と近鉄大阪線を抜けて耳成山へ
藤原宮跡のベンチで、ようやくお昼タイムです。
ここまでの道中の疲れをキンキンのビールで癒しつつ、美味なるカップ麺を頂きます。
藤原京は、持統天皇が694年(持統8年)に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から遷都し、文武天皇、元明天皇の三代にわたり、710年(和銅3年)の平城京遷都までのわずか16年間、日本の都が置かれた場所です。
今回の歴史探訪では、時代背景的にも番外編ということになります。歴史音痴の私には追随が困難なアイテムでした。

ここから少し重くなった体を鼓舞して、最後の耳成山への向かいます。ルート選択が少し失敗だったのか、重い足取りには厳しい急な坂道と階段を上ると、閑静な山口神社に到着です(帰りに通った道は緩やかな傾斜で歩きやすかったです)。

ここは8世紀ごろには既に建立されていた記録があり、朝廷から月次祭・新嘗祭に幣帛を受ける格式の高い神社であり、皇室からの信仰も篤かった由緒ある神社だそうです。

ここから少し登るとようやく耳成山の山頂に到着です。

無事にゴールした後は、八木駅で恒例の大反省会を盛大に行い、新緑の山行を大満足の内に締めることができました。というか、お酒を美味しく飲むための山行だったという説が濃厚、とも言われています。

大和三山にまつわる、有名な歌のご紹介
『春過ぎて 夏来るらし 白栲(しろたへ)の 衣干したり 天の香具山』
持統天皇が藤原京(現在の奈良県橿原市付近)から天香久山を眺め、白い衣が干されているのを見て、夏の訪れを感じて詠んだ歌は有名ですね。
『香具山は 畝傍(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と あひあらそひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき』
これは万葉集のなかで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が三山を擬人化して詠んだ歌で、「香具山が女性として畝傍山を愛し、同じく女性として描かれる耳成山と争う」と解釈されています。
意味は、「香具山は畝傍山を愛しいと思い、耳成山と互いに争った。神代の昔からこのようであったらしい。昔もそうであったからこそ、今の世の人々も妻を争うのだろうか。」というものです。
少し、歴史に触れた気になる豆知識でした。
まとめ
橿原神宮の静謐(せいひつ)な空間に身を置き、いにしえの歴史と豊かな自然が息づく橿原の地を巡る山行は、日常を忘れ、心の奥深くのどこかに語りかけてくるような時間のようにも感じられました(気のせいかも知れません)。
今回のルートは、少しだけ歩きごたえがありましたが、思い返すとそれを凌駕するほどに見どころも満載でした。
ただ酒を飲むためだけの山行ではなかった、と思えるほどに充実していたというのが正直な感想です。
新緑の中をほどよい曇り空で適度な気候に恵まれ、浅い歴史の知識の私でもワイワイ楽しく歩くことができました。
この記事を通して、少しでもその魅力が伝われば幸いです。
歴史の深さと自然の美しさが織りなす橿原の地へ、皆さんも足を運んでみてはいかがでしょうか。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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