「思考停止」の罠から脱却!全体最適と個の多様性を両立させる思考法

学び・雑記

私たちは、生まれた時から膨大な情報に囲まれ、先人たちの知識を学ぶことを教え込まれてきました。

それは素晴らしいことですが、いつの間にか「与えられた情報の中に正解を探す」ことが身についてしまってないでしょうか?

本当に必要なのは、与えられた情報の中からましな答」を見つけるのではなく、自分の経験や学びを通して得た「気づき」を基に、自分の言葉で考え、どこかにある正解を選択することの筈です。

情報が溢れかえる現代社会において、私たちは知らず知らずのうちに「思考停止」に陥っているのかもしれません。

一方で、こうした情報選択の局面で、自分は一体どの価値観に基づいてい判断しているのかを、自分自身に的確に説明できているでしょうか。

この記事では、情報の是非を自分の頭で考える(思考停止から脱却する)ための、所属する集団に縛られる価値観と、自分が指向する価値判断基準のバランスを調和させた上での思考の重要性、という視点についてご紹介します。

はじめに:情報過多と「思考停止」の問題提起

情報が洪水のように押し寄せる現代、私たちは知らず知らずのうちに「思考停止」に陥ってはいないでしょうか?

思考停止」というのは、端的に言うと、人が言うことを鵜呑みにしてそのまま信じてしまうことです。多くの人は、自分はしっかり考えて判断してると思っていることでしょう。果たして、本当にそうでしょうか?

テレビ、SNS、ネットニュース…。生まれた時から膨大な情報に囲まれ、私たちは「どこかに正解があるはずだ」と教え込まれてきました。

しかし、残念ながら、現実は私たちが期待するほど単純ではなく、与えられた情報には正解がないことは少なくありません。「子供じゃあるまいし、そんなことは百も承知」と言いながら、偏った選択をしてないでしょうか?

情報は常に中立とは限らず、時には意図的に歪められていることさえあります。だからこそ、溢れる情報を見極め、自分の中に確固たる価値判断基準を持ち、自分の頭で考えることが不可欠なのです。

この記事では、情報過多な現代において、いかにして「思考停止」から脱却し、自分らしい視点で人生を選択していくか、そのヒントをお伝えします。

情報依存の危険性:情報操作と偏見

情報は、時に凶器へと姿を変えます。情報の発信者が常に善意であるとは限らないからです

事実、「良い人」がいる一方で、「悪い人」も確実に存在するのが現実です。彼らは意図的に情報を操作し、私たちを特定の方向へ誘導しようとします。

残念ながら、メディアも例外ではありません。今話題の偏向報道は何十年も前から行われており、今に始まったことではないのです。しかし、多くの人々、特にシニア層は、未だにその事実に気づいていないと言われています。

では、真実はどこにあるのでしょうか?多くの場合、それは情報の発信者が意図的に隠していたり、全く別の場所に存在したりします。

情報操作は、私たちの判断を歪め、自由を奪い、社会を分断します。偏向報道は、特定の意見だけを強調し、真実を覆い隠します。情報操作は、マスメディアだけでなく、身近な人間関係においても起こりうることを認識しましょう。

だからこそ、情報を鵜呑みにするのではなく、常に疑いの目を持つことが重要なのです。

私たちは、情報に溺れることなく、真実を見抜く力を養わなければなりません。そのためには、情報を多角的に精査し、情報に潜む意図や偏見を見抜く力を養い、自分の頭で考えるしかないのです。

情報操作や偏見に屈することなく、自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の足で未来を切り拓きましょう

「正解探し」の罠:性善説の限界と現実

私たちは、いつから「正解探し」の罠にはまってしまったのでしょうか?

「きっとどこかに正しい答えがあるはずだ」「誰かが何とかしてくれるはずだ」と、まるで答えが用意されているかのように情報を鵜呑みにしてしまう。

しかし、現実には、私たちが「こうあって欲しい」とか、「こうあるべきだ」などと期待しているような世界は、どこにもありません。私たちは常に不確実な情報の中で、自らの判断で進むべき道を見つけ出さなければならないのです。

私たちを「正解探し」という間違った道に導いているのは、幼いころから吹き込まれてきた性善説という名のノイズです。

人は本来善であるという考えは、理想としては美しいものです。しかし、現実社会では、悪意を持った行動や不平等が後を絶ちません。正義が勝つというのはテレビの中だけの話で、本当は「悪もはびこることがある」のだということが重要な真理です。

一方で、正義とか悪は、その人が所属する集団の価値観や主義主張に依存するものでもあり、つまりは、立場によっては、正義にも悪にもなることが、いくらでもあるということも重要な視点です。私たちにとって解決困難な悪は、実は個人の醜い心に根差すものよりも、集団の立場によって生まれたものなのかもしれません。

しかし残念なことに、私たちは、一部の醜い心から生まれる悪にも対峙していかなければならないのが、もう一つの真理でもあるのです。

性善説を盲信することは、現実から目を背け、悪意に利用される危険性を高めます。正しくあってほしいということと、正しくあるということは、全く別のことだ、という残念な事実を、私達大人は受け入れなければなりません。

「正しい状態がどこかにある筈」という幻想を捨て、「誰かの力でどうにでもなる」という現実を受け入れることです。

そして重要なのは、自分にとって正しくないことをする人がいる理由を、本質的に理解することではないでしょうか。

全体最適と個の多様性:二律背反の現実

自分にとって正しくないことをする人はなぜ存在し続けるのか。大きく二つの答えがありそうです。

一つは、上述の通り、単に心が貧しい人の存在です。
しかし、それ以上に根深いもう一つの原因は、立場により変わる善悪の価値観の変化です。

後者は理想的な平和や平等がなぜ実現しないのかにもつながる、本質的で大きな理由です。ここからの内容が、この記事の核心部分です。

そして、心が貧しい人が、こうした立場により変わる価値観に便乗することで、事がより面倒くさいことになっている可能性を理解することも重要です。

立場により変わる善悪の価値観の変化は、私たちが多種多様な集団に所属し、それぞれの集団の価値観、規律による縛りをうけながら生きているという現実によって引き起こされます。

ざっくり言うと、国家は(理想的には)全体最適を目指し、社会の秩序を保とうとすべきものです。しかし、私たちは家庭、学校、地域社会、会社、趣味仲間、宗教など、複数の集団に所属し、それぞれの価値観やルールにも従わなければなりません。これらの集団の価値観は、時には互いに矛盾し、私たちを葛藤させます。

つまり、自分が関わる集団の価値観、規律と自らの志向する理念との不整合や、溢れかえる情報や多様な意見に翻弄され、時に影響力の強い集団からの理不尽な価値観への干渉など、自らの絶対的な価値観形成はとんでもなく難しいのです。

例えば、個人的には自由競争を支持していても、会社では年功序列が重視されることがあります。あるいは、自分は信仰する宗教はないけれど、地域の伝統的な宗教行事への参加を求められることもあるでしょう。

私たちは、常に全体最適と個の多様性の間で揺れ動き、妥協を強いられているのです。こうした個人の妥協の繰り返しは、やがて個人の人格面での崩壊を招き、自分の価値観、やりがい、生きがいの喪失につながりかねません。

そうした日常の葛藤の中には、ある立場では正義なことが、違う立場では悪になることはいくらでもあります。しかし、私たちは、空気をよみ、微妙に自己犠牲により調和を保とうとしてるのではないでしょうか。

この矛盾こそが、理想と現実のギャップを生み出す根本原因です。私たちは、社会の一員として全体最適に貢献する一方で、個人としての多様な価値観も尊重したいと願っています。しかし、その両立は容易ではありません。

では、私たちはどのようにこの矛盾に向き合えば良いのでしょうか?

大切なのは、全体最適と個の多様性の両方を理解し、その上で自分なりの最適解を見つけるしかありません。そのためには、情報に惑わされず、自分の頭で考え、判断するだけの力を養う必要があります。

「本音と建前」という、日本特有の便利なアイテムへの警鐘

こうした問題への向き合いにおいて、「本音と建前」という便利な概念があります。

状況に応じて、本当の自分と、かりそめの自分を使い分ける便利なものですが、ここまであからさまな概念は日本特有のものだそうで、しかも、戦後日本における発明品だそうです。

海外でも、似たような概念自体は有るものの、本当の自分と、建前の自分をここまで明確に使い分ける概念ではないようです。英語では「face(面子)」や「diplomacy(外交)」という言葉が、建前に近いそうです。

昔の日本の概念で、「本音と建前」に近いのは、「忖度(そんたく)」や「遠慮(えんりょ)」といった、相手の気持ちを推し量り、自分の意見を控える文化があったと言われています。

この「本音と建前」は、日常生活において、角が立たないとても便利なアイテムですが、論点をかわしたり、現実逃避的な側面もあり、特に、自分の内面の価値観を構成すべき局面において、問題に真正面から向き合う機会を逃す危険を感じます。

「本音と建前」を使い分けることで、自分の本当の考えを表現する機会が減り、結果として「思考停止」な状態に繋がりかねません。日常の中で、情報を精査する際に、建前で理解してしまうことが無いように注意したいものです。

こうした、二律背反の現実を認識し、自分なりの最適な調和を見つけること。そして、その上で、溢れる情報の中や外に、自分にとって最適な選択肢を見つけることこそ、「思考停止」状態からの脱却を意味するのではないでしょうか。

この二律背反の現実を認識し、自分なりの最適な調和を見つける上で、とても参考になるのが、次のフィンランドの事例です。

フィンランドのパラドックス:全体最適と個人の葛藤

理想的な全体最適社会は、個人の幸福と矛盾するのでしょうか?その問いに対するヒントが、幸福度ランキングで常に上位に位置するフィンランドの事例にあります。

フィンランドは、高福祉・高負担の政策により、経済格差が少なく、誰もが安心して暮らせる社会を実現しています。しかし、その一方で、うつ病や自殺率が高いという課題を抱えているのです。なぜ、全体最適が実現された社会で、個人の心の健康が損なわれてしまうのでしょうか?

彼らの国民性には、SISUという「勇敢で、粘り強く、忍耐強く、諦めない姿勢と態度」で表現されるような精神性が根底にあるそうです。一方で個人主義的で、内向的とも言われます。

幸福度では上位常連の人たちが、精神的に病みやすいというのは、そうした国民性に加えて、暗く長い冬の季節も関係しているとも言われます。しかし、それ以上に、国家が目指し、実現した高福祉社会と、個人レベルの自己実現に対する充足感のギャップもまた、原因の一つとは考えられないでしょうか。

全体最適と個人の価値観の間に存在するギャップについても、私たちは目を反らしてはいけないのかもしれません。国が目指す価値観や経済的な平等は、必ずしも個人の精神的な満足度と一致するとは限りません。社会的な成功や物質的な豊かさだけでは満たされない、心の奥底にある欲求や葛藤が存在するのです。

フィンランドのパラドックスは、私たちに、全体最適と個人の幸福は、どのように両立できるのかを問いかけます。それは、個人の多様な価値観を尊重し、心の健康を支える社会システムを構築することによってのみ、実現可能なのかもしれません。とても、難しそうです。

「自分の言葉で考える」:情報との向き合い方

私たちはどのように情報と向き合い、自分の言葉で考えれば良いのでしょうか?

何より大切なのは、自分の内なる声に耳を傾けることです。

情報に溢れた現代では、他者の意見や情報に流されがちです。しかし、本当に大切なのは、自分の経験や学びを通して得た「気づき」を基に、自分の言葉で考え、判断することです。内省と対話を繰り返し、自分なりの価値観を形成しましょう。

そして、意外と大切なのは、自分の言葉で表現することなのだと思います。

情報発信は、専門家だけのものではありません。誰もが自分の考えや経験を共有し、社会に貢献することができます。ブログやSNS、対話などを通して、自分の言葉で発信し、他者との対話を通して、新たな気づきを得ましょう。

情報に溺れることなく、自分の言葉で考え、行動すること。情報を、自らの判断で取捨選択することができるだけの力を養いたいものです。

まとめ:情報に溺れず、主体的に生きる

あなたは情報に流されていませんか?あなたは自分の頭で考えていますか?

社会の構造を知り、その中にある葛藤を理解し、しかし、自分の中に確固たる価値判断基準を築き、その中でバランスをとり、社会と調和しながら最適な判断をしていく。これは、簡単なことではありません。

しかし、主体的に生きることは自分の意志だけで実現可能です。

大切なのは、与えられた情報を鵜吞みにせず、自分の経験や学びを通して得た「気づき」を基に、自分の言葉で考え、判断することです。

全体最適と個の多様性、フィンランドのパラドックスなど、私たちは様々な矛盾や葛藤の中で生きています。しかし、それらに向き合い、自分なりの答えを見つけることこそが、情報過多な現代を生き抜く私たちの勤めなのかもしれません。

振り返って、日本の政治の質をみれば、疑問を持たざるを得ない残念なレベルに感じます。しかし、それは民度の裏返しとの指摘もあり、あながち間違いではないのかもしれません。

私たち日本人も、全体最適の為の政治的なアプローチへの意識と、個人レベルの充実感の調和のあるべき姿を考えるべき時なのかもしれません。いつまでも愚かで、利己的な政党遊びに付き合っている場合ではないですよね?

感情や情報に惑わされず、自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の足で歩いてみたいと思います。
能動性、主体性、自発性は時に善になり、受動的であることは時に悪になるのかもしれません。

今日からできること:ニュース記事のソースを確認する、SNSで異なる意見に触れる、自分の意見をブログで発信する。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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